The story of 蛤御門の弾痕——焼けて口を開いた蛤と、京都を焼いた1864年の銃撃戦 · 1 min · 日本語

蛤御門の弾痕——焼けて口を開いた蛤と、京都を焼いた1864年の銃撃戦

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The story

こんにちは、ナビゲーターのアブシャです。京都御苑の西側に立つ、この重厚な門の前に立ってみてください。ここは「蛤御門」。

もともとは「新在家御門」と呼ばれ、常に固く閉ざされていました。ところが、江戸時代の天明の大火の際、炎の熱に煽られて思わず門が開いてしまった。その様子が、火に炙られてパカっと口を開ける「焼き蛤」のようだったことから、いつしか人々から親しみと皮肉を込めて、こう呼ばれるようになったのです。

しかし、この門が真に歴史の激流に飲み込まれたのは、一八六四年の夏のことでした。「禁門の変」です。門の柱をよく見てください。

表面に、いくつもの小さく深い窪みがあるのが分かりますか?これこそが、百六十年前に放たれた本物の「弾痕」なのです。 当時、勢力を失っていた長州藩の軍勢が、天皇の奪還と名誉回復を求めて、この門を目がけて一斉に攻め寄せました。

それを迎え撃つのは、会津、薩摩、桑名といった幕府側の精鋭部隊。今の静かな公園の風景からは想像もつきませんが、かつてここは、轟く大砲の音と、飛び交う銃弾、そして武士たちの叫び声が渦巻く凄惨な戦場でした。 戦いの火の手は門を越え、京の町へと広がりました。

「どんどん焼け」と呼ばれるこの大火災は三日三晩燃え続け、二条城から東本願寺に至るまで、街の約八割を灰にしてしまったのです。この門の柱に残る傷跡は、京都の街が焼き尽くされた悲劇と、江戸幕府が終焉へと向かう時代の転換点を見届けてきた、生々しい記憶そのものです。 現代の穏やかな陽光の下でこの門を眺めると、あの日の喧騒が嘘のように思えるかもしれません。

ですが、指でその窪みに触れてみれば、かつてここを駆け抜けた志士たちの熱量と、歴史が音を立てて動いた瞬間の震えが伝わってくるはずです。この傷跡が語りかける物語に耳を傾けながら、幕末の京都に思いを馳せてみてください。

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